釣りキチ三平のムツゴロウ編で、三平にムツ釣りを教えた燕返しの小次郎は、「ムツ掛けにまぐれはなか」と言ったが、本当だろうか?
もしかしたら、あるかもしれない。
下手な鉄砲を数撃つうちに、当たってしまうことだってあるかもしれない。
ところで干潟に出る前に、燕返しの小次郎から遠くの枡にムツカケ針を模したボールを勢い良く投げ入れるトレーニングを受けるシーンで、ボールが枡を通過しそうになった時に慌ててブレーキをかけてボールを枡に落とした三平。
これを見た小次郎は、「三平君、今のは置きにいったな」と言った。
小次郎は目いっぱいの速度でボールを投げ、勢いを殺さぬままボールを枡に収めるのである。ムツゴロウの虚を突き死角から素早く針を掛ける。枡はコントロールの象徴で、コントロールは一つの必要条件に過ぎず、針のスピードを殺しては決して釣れないということだ。
更に全くの余談だが、我々バンドのメンバーは、皆が釣りキチ三平のこのエピソードを知っていた為に、攻めずに安全策で演奏をする姿勢を「置きにいった」と表現して牽制、お互いが安易な手を繰り出すことが出来なくなっている。
まあ、この緊張感がバンドの面白みなのであり、かけがえのなさでもあるのだけれど。
閑話休題。
私は断言する。
ムツ掛けにまぐれはあるかもしれないが、マラソンにまぐれはなか。
そげんもんは、絶対になかですたい!
だから散々悩んだんのだ、私は。
7月からコンディション不良に悩まされ、何度も棄権を考えた。
しかし、マラソンを走らなくても北海道旅行はしたい。
という訳で、全く治らない下痢と背中の不快な痛みを抱いたまま、留萌、紋別とレンタカーで旅を続け、私はとうとう競走の地、稚内に到着したのだった。
体感的なコンディションの悪さではなく、客観的な数値の違いで言えば、前回のかすみがうらマラソンの1週間前に実施した10kmタイムトライアルは47分47秒で走ったのだが、今回は頑張っても55分をやっと切るのが精一杯だった。
かすみがうらの時の自分を100とした場合、練習量は70、練習の質は30、体調は60、という感覚。もうタイムなんか狙わずに、歩かずゴールするということに目標を切り替えた。
私の思惑では、30㎞までは1キロ6分ペースを淡々と刻んでいく。そのまま押し切れば4時間13分でゴール、もし調子がよければここから上げて4時間10分切りを目指し、苦しくなっていたら粘って4時間15分は死守したい。この作戦で行こう。
これは決して「置きにいく」のではない、コンディション不良時のレースマネジメントの訓練なのだ。
快晴、無風の稚内は、予想最高気温はなんと26度。暑すぎるな、これは。
しかもコースはずっと海沿い、直射日光を遮るものなどなにもないのだ。
スタートが午前9時、サブ4を諦めたランナーのゴールは13時を過ぎる訳で、必然的に灼熱地獄を走ることになる。走る前からうんざり。
ところで昨夜、ホテルで供された夕食にウニ、ホタテ、タコの刺身、ちゃんちゃん焼き、カレイの唐揚げ等いかにも北海道な料理の数々が提供されてテンションが上がり、全て平らげた上にご飯もお代わりしてしまったところ、明け方から酷い下痢を3回もしてしまい、一か八か朝食をパスしてありったけのエナジー・ジェルを携行することにした。
理屈の上では5㎞ごとに補充したらハンガー・ノックは起きないはずである。
また不安材料が増えている。
宗谷岬公園。
晴れ渡る空と反比例するかの如く、気が重くて私の心は沈む。
午前9時、稚内市長の号砲でついにレーススタート。
参加者は500人ほどと極めて少ない人数で、スタート渋滞も起きずに号砲から10秒もかからずスタートゲートを通過した。
直後、サブ3.5のペーサーと、ペーサーに付いていく集団に追い越された。
なんでサブ3.5のペーサーが私の後ろにいるんだ?
しばらく走っていると、サブ4のペーサーと集団に飲み込まれた。
私は実に愚かだった。
この集団について行ってしまったのだ。
おい、最初のプランはどうしたんだ!
自分に問いかけるが、私の脚はとまらない。
あれ?いけるかな?
10kmを過ぎる頃、身体がフッと軽くなった感覚があった。
気温が高いので全てのエイドで水分補給。
そして5㎞ごとにエナジージェルで糖分とカロリーの補給。
水分も栄養も足りており、内臓に余計な残留物はない。
むしろ調子がいい気がしてきた。
20㎞通過。
なんだかペーサーが遅く感じる。
抜いちゃおうか?
いや、しかし無理は禁物、ここは力を抜いて引っ張ってもらおう。
中間点通過は1時間58分を少し切っていた。
かすみがうらより2分以上速いな。
いける気しかしなくなってきた。
マラソンにまぐれはなか。
ということを遅ればせながら思いだしたのは、30㎞地点のエイドでのことだった。
毎回止まってしっかりと給水してから再び走り出しペーサーに追い付くのだが、今回は走り出したらペーサーとの距離が詰まらずにどんどんと開いていく。
あれれ?
31㎞のラップはこのレース初めての6分台に落ちた。
でもペーサーが視界にさえ入っていれば、まだ4時間切りは狙えるかもしれない。
前半で2分以上の貯金があるのだ。
しかしペースはずるずると落ちていく。
ペーサーが徐々に遠ざかっていく。
そして35㎞のエイド。
左膝に痛みを発症した。
屈伸をすると、あれれ?しゃがんだまま、脚を伸ばせない。
気合を入れて立ち上がるも、プルプルと力が入らず、生まれたての小鹿の足取りである。股関節も固まっている感じがしたので、脚を回そうとしたのだが、脚が10cmぐらいしか上がらないじゃないか!
ヤバい、完全に燃料切れだ、これ。
エイドの餅、チョコ、バナナ、ジェルを次々放り込み、更に水じゃなくてコーラを飲んでから走り出すと、最早「走る」ことなど出来なかった。走るフォームで歩いているだけだ。
おまけに空きっ腹にエイドの食料を一気に詰め込んだ為か、胃がキリキリと痛む。
私のレースは30kmで、そして私のマラソンは35kmで終了した。
みじめだった。
とぼとぼ歩く私に、地元の方々か大きな声援を送ってくれるのが実にみじめだった。
最後の7㎞、私は誰一人として抜くことはなく、ただただ抜かれ続けた。
かすみがうらマラソンでは37km地点で左臀部を痛めた。
それでももがくように走り続け、ゴールまで歩くことはなかった。
歩いている人を抜くたびに、走れ!痛くても走れる!と心の中で叱咤していた。
走ることと歩くことの境界線は、気合いだと信じて疑わない程おめでたかったのだ、あの日の私は。
屈辱にまみれて歩いた。
応援の声がかかると頑張って少し走った。
でも200mぐらい走るというか早歩きをすると再び脚は止まった。
ついには1㎞9分超えという未体験ゾーンへと突入した。
ゴールが見えた。
係員が私の為にテープを握っている。
ここだけは走らなくては。
やっと立つことを覚えた乳幼児が、テレビのダンサーを真似て踏むご機嫌なステップのような足取りで、つまり真っ直ぐというよりはヨチヨチと左右にふらつく不安定な足取りで、私はゴールテープを切ったのだった。
手元のランニングウォッチは、4時間23分を示していた。
マラソンにまぐれはなか。
駅前のセーコーマートでビールを2本買い求め、打ちひしがれた気持ちでバスを待ちながらビールを飲み続けた。
少なくとももう走る必要はないのだ。