登山のオフシーズンの体力維持にと本格的にランニングを始めたのが2020年10月。
以降、登山よりもランニングの方が面白くなってしまい、山には一切行かず(登山とは実に短い趣味だった)、あれ程好きだった釣りに行く回数もどんどんと減り、走ることに夢中になっていたら、月間走行距離が250kmを下回ることがなくなっていた。
力試しにフルマラソンに挑戦しようと2021年10月の松本マラソンにエントリーするも、コロナで中止。
2021年11月の黒部名水マラソンも中止。
2022年2月の湘南国際マラソンも中止。
4度目の正直となったかすみがうらマラソンで、いよいよフルマラソンデビューを果たせることとなった。
3日前に誕生日を迎えたばかりだし、メモリアルな初マラソンにしなくては。
2月の湘南国際マラソンでは、キロ6分ペースの4時間13分を目標に掲げていたのだが、練習期間が延びたことで走力が上積み出来たと前向きに捉えて、いっちょデビュー戦でのサブ4やったるか、と、4時間切りを目指すことにした。
何しろ残りの私の人生で、一番若いのは今なのだ。
イケル時にはイクべきだ。
土浦の鄙びたホテルに前泊、翌日の準備を抜かりなく。
カーボローディングをやり過ぎて、そこそこ酷い下痢を発症したものの、正露丸を用量の2倍服用し、朝ホテルで3回、スタート地点近くのコンビニでも用を足し、なんとか便意は治まった。
スタート時の気温は10度、天気は晴れ。
風も弱く、まずまずのコンディションと言えそうだ。
混雑回避のために5分おきのウェーブスタートを採用した本レース、私の属する第2ウェーブは9:50スタート。
集団の真ん中あたりで待機するが、号砲が鳴ってもなかなか集団は動き出さない。
ようやくスタートゲートを通過したのは、号砲の1分半程後だった。
しかし、人混みが凄くて走るというより早歩きのようなペースが暫く続く。
1km過ぎで左に曲がると早くも最初の難所、急な上り坂の橋を渡る。
橋の道幅はそれまでの道路よりも狭くなっており、再び大渋滞。
ここで人を縫うようにジグザグに走ったのが悪かったのか、いきなり左右の脛が疼き始めた。
まずいな。
いやな予感は現実のものとなり、3km地点で両方の脛がパンパンに張って激痛が。悪癖の前脛骨筋痛が、よりによって両脚同時に発症する最悪の事態で、テンション激落ちである。
脛が痛むと足首の柔軟性も下がり足音が大きくなるので、ペースを落とさざるをえない。
こんな序盤でレースプランが崩壊するとは思いもよらなかったけど、これは序盤に突っ込むなというマラソンの神のメッセージなのだと思うようにして切り替える。痛みに耐えて走り続けていれば5,6kmで痛みは治まるはずだ。
しかしながらこの日の前脛骨筋痛は執拗で、痛みが無くなったのは14km過ぎだった。
ここで一気に遅れを取り戻そうとするのは危険なので、5分30秒前後の当初の想定ペースを維持する。
中間点を通過した時、手元のランニングウォッチでは2時間ジャスト、前半で2~3分の貯金をするプランは失敗したけど、アクシデントがあった割にはなんとか上手く纏めたとも言える。前向きに前向きに。
30km通過。
私の人生最長ランニングは30kmなので、ここからは未知の領域だが、心肺も体力もまだ余裕がある。いけるぜ、42.195km!フルマラソン恐るるに足らず!
しかし何が起こるかわからないのが長丁場のレース、34km手前で誰かに後ろから膝カックンをされたかのように、突然右膝がガクッと崩れ、つんのめって手をついた。何だ?何が起こった?
エイド以外で初めて止まり、膝の屈伸を数回。右膝に力が入らない。
様子を見るように少しペースを落として走りだす。
いつまた膝が崩れるかもしれないという恐怖、恐る恐るという走りで34kmから35kmのラップが5分50秒まで落ちた。
さすがにこれは遅過ぎる、次のラップは頑張って5分40秒まで戻す。
しかし、無意識に右膝を庇うような走りになっていたようで、異変は左臀部に起こりつつあったのだった。
激痛。
37km過ぎで、左臀部の違和感は激痛に変わった。
くそ、あとたったの5kmなのに、尻が痛くて脚が上がらない。
もう右膝なんか庇ってられない。左脚が前に出ない分、右脚で強引に引っ掻くように走る。
身体は傾き、左右の歩幅も違うみすぼらしい走りだけど、必死にもがくように走る。
don't walk, run!
(ラスト7kmのスプリット、あの苦しさが甦る)
痛みに耐えながら必死の瀕死の走りを続けていると、ゴールゲートが見えてきた。
埋め込まれた電光掲示板のストップウォッチは、今まさに4時間に到達したところだった。
私は、アラン・シリトーの小説の主人公のように、ここで走るのを止めようかと一瞬考えたが、考えているうちによろけるようにしてゴールゲートをくぐったのだった。