マイカー通勤は古い音楽を楽しむのにうってつけの環境だったが、移動中に文章を書いたり(例えばこのブログだったり、メールだったり)、読書が出来ないというデメリットもあった。
その反動なのだろうか、ここ2週間程で9冊も本を買い込んでしまった。
私は活字中毒ではないのだが、本を買うことと、積ん読が好きなのである。
積ん読とは未来への希望なのだ。
さて、スーツ購入ドキュメンタリーの「着せる女」がとても面白かったので、今回まとめ買いした本の半数以上がノンフィクション、これは私としては珍しいことだ。
話題になっていたこの本が、その中の一冊である。
いわゆる悩める人向けの自己啓発本だ。
活字は大きく、イラストが多く、故に老眼に優しく、通勤のお供に行き帰りの電車で読んだだけでも3日かからずに読了。
結果的にこの本は私には全く響かなかった。
と言うとフェアじゃないかな。
付け加えると、私が既に通りすぎてきたこと、そして私が今までも、これからも決して通らないであろう道について書かれていた、という訳で、参考になることが全くと言っていいほどなかったのである。
勿論、かなり人生に行き詰まりを感じていた10年前に読んだら、少し異なる感想をもった可能性もなくはない。
しかし、行き詰まりを感じていた10年前に、私は岸田秀の「ものぐさ精神分析」と、泉谷閑示の「普通がいいという病」という、目から鱗が落ちるような二冊の思想書に出会い、気が付けばトンネルを抜けていた。
特に、「普通がいいという病」は常に手元に置いて何度も読み返しているうちに、「ものぐさ精神分析」すら軽く駆逐してしまい、今や何処から何処までが私のオリジナルで、何処まで何処までがこの本から影響を受けた私の考え方なのか、分離不能なまでに血肉となっている感がある。
勿論、「あやうく一生懸命生きるところだった」の著者も、「万人向けの作品は存在しない」と本文中で語っているように、彼の言葉が響かない読者が一定数いることも折り込み済みだろう。
かのニーチェも「万人向けの書物とは、常に腐臭を放つものだ」と書いている。
更に余談だが、マイカー通勤のお陰で最近再び聴き始めたFUGAZIのイアン・マッケイは、「本当にラディカルで素晴らしい演奏は、常に少数の人間だけが目撃できる」と語っている。
つまり、マジョリティとは岸田秀的に言えば幻想で、泉谷閑示的に言えば麻痺した集団で、ニーチェ的に言えば腐臭を放ち、イアン・マッケイ的に言えば本物のラディカルを目撃出来ない人々、ということになる。
これはこの著者の視点と共通していると言える訳で、つまり盲目的にマジョリティに追随するのではなく、並走者や追随者が仮に誰も居なくとも、己の道を行け、ということだろう。
私もマジョリティにはなれないなかの一人だ。
故に私には書物が必要なのだ。
たまたまこの本は私にはハマらなかったが、根底に繋がる部分は確認できたし、回り道をしなければ本当に重要な本にも決して巡り会えないもまた事実でもある。
自分にとって最高の書物とは、簡単には手に入らない。
故に本を買うのは面白いのだ。