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開高健「夏の闇」読了

エンタメ系探検作家の高野秀行と、シリアス系探検作家の角幡唯介が揃って絶賛していた、開高健の「夏の闇」を読んだ。

 

開高健といえば、「フイッシュ・オン」「オーパ!」というアングラー必読の書があるが、いずれも私は未読。

氏の著作は、恐らく高校の課題図書で読んだ「パニック/裸の王様」だけだと思う。しかも内容は一切覚えていない。

 

名前のない男が、どこだかわからない国の安宿に逗留し、名前のない女と再開を果たす。

背景の見えない2人の邂逅(開高とかけた高度なギャグ)には、何のストーリーも見出だせず、戸惑いながらも読み進める。

そこから名前のない女の拠点、ドイツに移るが、これといって何も起きない。

 

退廃と孤独と孤絶。

デカダンスとソリチュードとアイソレーションが、ただひたすらに描かれている。

実に重い。そして暗い。

 

割りと安易なキャラクター設定、ご都合主義全開のストーリー展開、バリバリのエンタメ小説だった原田マハ「キネマの神様」と真逆の、重く暗い小説だ。


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帯の角幡唯介のキャッチが、最高に素晴らしい。

冒険者が自らを蒸留して搾り出した窮極の一滴」

物語の中にも、印象的に火酒という名の蒸留酒が度々登場するが、なるほど、確かにこれは醸造酒のように単純に発酵させたのではなく、自らを蒸留するかのように搾り出した文章だ。

原田マハの文章はそれこそ醸造酒的で、ビールをゴクゴクと飲むかのように一気に読めたけど、開高健の文章はウイスキーを舐めるが如く、ゆっくりとしか読み進めることが出来ない。アルコール度数がとても高いのだ。

 

物語が動き出すのは湖にパイク釣りに行くところから。

釣りを通じて生気を幾ばくか取り戻した男は、街に降り、そこで女の元を離れて再び戦地ベトナムに戻ることを決める。

女にどれだけ口撃されても、そして男自身も明確な理由を見つけることの出来ないまま、逃げる訳でも使命を帯びる訳でもなく、ただ「現場」へと戻るのだ。

 

自身も朝日新聞の特派員としてベトナム戦争を取材していた作者の、半ばノンフィクションといった部分もあるかもしれない。

 

そして「現場」から離れている時の離脱感、離人感、虚無感。結局言語化出来ないよくわからない衝動に突き動かされて「現場」へと戻ってしまう感覚が、エンタメ系とシリアス系、2人の探検家を魅了してやまないのだろう。

 

私は探検家でも冒険者でもないが、孤独な旅行者ではある。その気持ちの一端ぐらいは分かるつもりだ。

 

解説がCWニコルというのも意外だった。

この英国出身の小説家は、英語に翻訳されたものを読んだ訳だが、多くの優れた日本文学が英訳された途端につまらなくなるのに、この小説に関しては翻訳者の技術が素晴らしく、自身の最愛の日本文学と語っている。

しかし、私が思うに、この小説はストーリーと呼ぶような起承転結もなく、瀟洒で洒脱な文章を味わうでもない、ひたすら硬質な筆致による蒸留された文章が続く蒸留酒、つまりは言語システムに関係なく、そのエッセンスが伝わり易いのではないだろうか?

これは本作と対になっている「輝ける闇」も是非読まなくてはならない。

 

ところで、いずれも硬質な筆致の開高健角幡唯介の文体は、どことなく似ている気がする。

そう言えば角幡唯介朝日新聞の記者をやっていのだった。

あと、初めて角幡唯介の本を読んだ時に、元共同通信記者の作家、辺見庸の文章に似ているなと感じたことを思い出した。

 

新聞記者的散文体系というものが、この世には存在するのだろうか?