Everything in Its Right Place(SUB3.5 or DIE)

マラソン(PB3:36:04)、バンド(ベース担当)、海外独り旅、酒、釣り(最近ご無沙汰)をこよなく愛する後期中年者の日常。

保護犬、来る。

2020年の暮れに父親が亡くなり、母親は齢76歳にして人生初の独り暮らしとなった。

 

以来、2017年に引き取った不幸な生い立ちの老保護猫が、母親の話し相手になっていたのだが、猫特有の腎臓病の悪化で、今年のGW明けに亡くなってしまった。

これで独りと1匹暮らしから、完全に独り暮らしとなった訳だ。


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ただ優しいだけの母親は、子供もペットも甘やかすだけ甘やかす性質なので、私のような極端に我が儘な人間や、自由奔放・我が儘放題な犬と猫を育ててしまう傾向があるのだが、懐くのが難しいと言われる元野良の老保護猫を、あっという間に甘えん坊の家猫に変身させて私や周囲は大変に驚いたのであった。

不幸な生い立ちの動物には、徹底的に甘やかすことが一番良いことなのかもしれない。

 

もし、全ての人間に自分の役割があるのだとしたら、母親の役割とは、不幸な動物を保護して幸せなペットライフを教えてあげることなのではないだろうか?とさえ私は思った。

 

もう自分も年だし、最期まで面倒見れないかもしれないし、別れは辛いしと、動物は二度と飼いたくないと言っていた母親だが、無趣味故に引きこもりがちになり、寂しい想いをもて余しているようだった。

このままでは足腰が急速に弱り、認知症一直線だと危惧した私は、シニアの独り暮らしでもペットを飼えるなら飼うべきという考え方の動物保護施設と連絡を取り合い、相談に次ぐ相談を重ねた。

 

ちなみに我が家の動物遍歴は、まだ私が小学生だった昭和54年にやって来た日本猫を筆頭に、翌年にヨークシャーテリアとチワワのミックス犬、初代猫が亡くなった後にスコティッシュホールド、初代犬が亡くなった後にシーズー、そして柴犬、件の保護猫、という具合に40年以上に亘り常に犬と猫がいた。

犬も猫も好きな私だが、どちらかと言えば猫派である。

一方で母親は、歴代ペットのなかでは、気難しくて小柄なメスのシーズーを最も溺愛しており、シーズーが亡くなった後、もう一度機会があればシーズーを飼いたいと何度か言っていたのを覚えている。

確かにシーズーの潰れた顔は、母親に似ていなくもなかった。

 

お盆休みの直前、その動物保護施設のスタッフから連絡があった。

 

一見してビビビッと来ましたな。

 

その犬の写真を母親に見せたところ、二度と動物は飼いたくないという決心はあっさりと覆されたようだった。

 

申し込み、審査、諸手続き。

お迎えまで2週間近く掛かり、母親の気が変わるのではないかと若干気を揉んでいたのだが、日が経つにつれて、早く会いたい気持ちが募っていったようだ。


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お迎え当日。

怯える眼で私を見つめるその犬は、震えていた。

車の助手席に乗せると、懐かしい生き物の匂いがした。切なくも温かい気持ちになるが、当の犬は呼吸が荒く、軽くパニック状態だった。

 

実家に到着しても、一向にキャリーケースから出てこない。

まぁいい、自分のペースでゆっくりと慣れてちょうだい。

急ぐ必要はもうないのだ。


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これは2日目の様子。

まだ少し緊張しているようだ。


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しかし、なんてカワイイのだろう。

可愛い過ぎて切ない。

 

家に犬が居るのは久し振りの、特にシーズーが家にいるというのは実に久し振りの光景だが、やはり猫とは質感が違う。

猫もいいけど、犬には猫にない良さもあるという当たり前のことに、なんだかハッとする想いがした。

 

年老いた母と、不幸な生い立ちの犬が紡ぐ物語を、付かず離れず見守りたい。