Everything in Its Right Place

釣り、旅、音楽、食事、酒場探訪、ジョグ等々

埼玉屋(東十条)

元総理大臣が応援演説中に銃撃されるというショッキングな事件が起こった日、私とサマーな後輩(仮名)は揃って午後半休を取得し、聖地・東十条の埼玉屋を参詣する約束をしていたのだった。

一応軽く意志確認のうえ、予定どおりに決行することにした。


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開店10分前に到着すると、既にそこそこの行列が形成されており、大事件と日常というコントラストが不思議な気もしたし、至極当然のことのようにも思えた。

 

出遅れた我々はいつもの左奥ではなく焼き台の目の前に案内されたのだが、ここは炭火を使って串を丁寧に焼き上げる大将の神業を間近で見ることの出来る、ある意味で特等席であった。

 

私は生ホッピー、サマーな後輩(仮名)は生ビールを頼み、この日も激情型もつ焼き劇場の開幕だ。

 

厨房には見慣れぬ若い男性が居たが、どうやら彼はジュニアのジュニアらしかった。

埼玉屋三代が揃い踏み、未来は安泰である。

 

料理はいつものように大変に美味しく、レモンサワーもいつものように究極に美味しかった。

夏場はナトリウム補給が大事だと、レモンサワーのジョッキの縁にまぶす塩の量も増やしてくれる夏仕様、そんな心遣いも最高である。

 

いつもの串のお任せの他は、ポルコ(豚の耳と胡瓜のオリーブオイルがけ)、煮込み(もつじゃないよ、牛肩ロースだよ)、牛タタキ(恐ろしいまでの美味)を堪能、聖地の崇高さに酔い痴れるのみだ。

 

途中、店内で点けっぱなしのテレビから、元総理大臣の訃報が速報で流れた。

私はこの日のことを生涯忘れないであろう。

 

ともあれ、今日も最高の埼玉屋であった。


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2軒目は前回同様に駅前の養老乃瀧へ。

暑い盛り、締めは瓶ビールが良い。

YORO BEERを飲んでいると、唐突に我々の共通の知人でもあるDDVセンパイ(仮名)からLINEがきた。

飲みの誘いかな、なんて軽く開いてみると、「僕のなかの壊れていない部分、そのままだね」と書いてあった。

その瞬間、雷に打たれたような衝撃が走ったのだった。

白石一文の小説、「僕のなかの壊れていない部分」は私の生涯No.1小説(多分、もしくはある意味で)だが、そのなかで主人公がかわいがっている弟分が、現役の総理大臣を刺殺するシーンがある(靖国参拝を止めることが出来ないなら、殺すかしかないという理由。私怨ではなく義憤だが、今回の事件と類似性がないこともない気がしないでもない)。

しかしそれだけなら不思議な符合とまでは言えないのだが、この小説では幼い主人公が母親に公園に置き去りされて捨てられたのが7月8日であり、そしてその母が闘病の末に亡くなったのが7月8日であった。

それを主人公は婚約者の家で(ここでもとんでもない事件が起こり、それがとにかく最高なのだが、メチャクチャ長くなるので省く)不意に気が付き、呪文のように「しちがつようか、しちがつようか」と繰り返して慟哭を遣り過ごすのだった。つまり、この小説の中では7月8日という特定の日付が、ある種のキーワードなのだ。

以降私は7月8日を「僕のなかの壊れていない部分の日」と決めて、この日に読み返すことを数年ほど習慣にしていたのであった。

そしてすっかり忘れていたけど、今日は2022年7月8日じゃないか。こんな形で「僕のなかの壊れていない部分の日」を思い出すことになろうとは。

 

私が受けた衝撃をなんとかサマーな後輩(仮名)に伝えようと試みたが、言語化は不可能であった。この物語を経験するしか共有の方法はないのだ。

 

そんな訳で二次会は微妙な感じでお開きに。

良くも悪くもこの大事件に、我々も影響を受けない訳にはいかなかったのだろう。

 

そしてその帰り道、政治とは、政治家とは、本当に因果な商売だな、となんとなく思いながら電車に揺られていた。

私は亡くなった元総理大臣を全く支持していなかったし、むしろ積極的に不支持であり、投票の機会がある度に反対票を投じ続けてきた訳だが、それでもこの痛ましい最期を悼む気持ちに嘘はなかった。

 

車内でボーッと突っ立っていたところ、駆け込み乗車してきた肥った女性に突き飛ばされた私は、唐突に「狼は生きろ豚は死ね」という昔の角川映画のキャッチコピーを思い出した。

このフレーズ自体はそもそも角川映画のオリジナルではなく、石原慎太郎の戯曲のタイトルだ。

尊大な態度、トランプ並みに独善的な姿勢、小池百合子を「厚化粧の年増」とこき下ろす事で女性票が大量に小池に流れ、結果として猛烈にアシストしてしまう迂闊さ、この人もまた、私の苦手な政治家であった。

しかし、初期の大問題作「完全な遊戯」、衆院議員を辞して都知事に就任するまでの間に書いたとされる「聖餐」など、読んでいるこちらの気分がどうしようもなく滅入る、凄まじい負のパワーを持った小説を書く、偉大な作家でもあったのだ。

まったくもって猛毒のような作品だが、往々にして「猛毒のような」という例えは創作に対する褒め言葉である。

何故ならば、「僕のなかの壊れていない部分」も猛毒以外の何物でもないからだ。

 

虚構と現実の狭間で失われた私は、帰宅してからも飲み続け、意識を失うように眠った。

目が覚めたら7月8日が過ぎ去っていることを祈って。


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