ジャケ買いならぬ、タイトル買いである。
何故物語が必要なのか。
これは私にとっても永遠の課題だったからだ。
優れた表現とは、物語を取り込むためのツールである、という立場を私はとっている。
優れた小説、映画、マンガ、絵画、音楽、etc.は、いずれもストーリーそのものでありながら、ストーリーを取り込む為の媒介としても働くものなのである、私にとっては。
勿論、そのような目的で存在しない表現も沢山あるが。
便宜的に「優れた」表現という形容詞を使ったのは、物語を取り込むためのツールとして機能する作品を差別化するために用いただけであり、本当は優劣は関係ない。
面倒だから調べないが、村上春樹が書いたオウム真理教を追ったノンフィクションの中で、信者たちと面会を重ねるにつれ、彼らの話には破綻なく理路整然としているものの、何かが足りない。それはストーリーだ。というようなことが書いてあったと記憶している。
ストーリーとは知性とは同じベクトルには無い。
言い換えるならば、それは想像力と創造力ということになるかもしれない。
という訳で、期待に胸を膨らませて読み始めたこの本、結果的には残念ながら期待はずれに終わった。
その答えは著者あとがきにある。
「人間は物語を必要としている、(中略)なんだかまるで人間が(中略)物語を外から摂取することが必要であるかのようです。」
「本書の主張は違います。(中略)人間は生きていると、ストーリーを合成してしまいます。人間は物語を聞く・読む以上に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう。」
つまり、自分の内部で不可避的に合成されるストーリーに苦しむことなく、より楽に生きましょうという自己啓発本の類いであったのだ。
私が痛風を発症した時に検査で判明したことは、私は体質的に体内で過剰なプリン体を生成してしまうので、食事からのプリン体をいくら抑えたところで、正常値まで尿酸が下がることはないだろうということだった。
フェブリクという薬を毎朝1錠飲むことで対症療法を行っているが、本当は私は完治する方法を知りたい。
つまり私はこの本に根治を求めたのだが、実はこの本もフェブリクに過ぎなかったのだ、という感じか。
いや、大事なんですけどね、フェブリク。