評論が対象の大佛次郎論壇賞を授賞したこちらの本。
タイトルはなんのこっちゃだが、「ケアとセラピーについての覚書」という副題から分かる通りで、京都大学院の博士課程を終了した筆者が、沖縄の精神病院で臨床心理士(セラピスト)の職を得ると同時に、併設するデイケアに飲み込まれていく話だ。
作者の言葉によれば、「ガクジュツ書」にカテゴライズされる訳だが、一大スペクタクルの様相を呈したこの本、優れたノンフィクションであり、優れたエンタテインメントであり、優れた私小説であり、優れた哲学書でもある。
「ガクジュツ書」というには、あまりにも芸術的だ。
私がこの本を手にしたのは、臨床心理士に興味があるからでも、デイケアに通う必要性を感じているからでもなく、敬愛する作家の高野秀行のTwitterきっかけでその存在を知り、興味をもったからだ。
高野氏の「面白いもの」に対する嗅覚には、絶大な信頼を寄せている。
村上春樹の影響を受けているような文体は、私には馴染みが深くとても読みやすい。
高野秀行の影響を受けているかのようなユーモアある言い回しは、時折たまらず吹き出してしまい、電車で何度か恥ずかしい思いをした。
しかし、読み終えた時に受けた感動と感慨は、私の語彙では言語化出来ない感情だった。
つまりは今までの読書体験では得たことのない種類の読後感である。
私自身が、会社に「ただ居るだけ」の存在と成り果てているから、何か不思議なシンクロが起こったのかもしれない。
当初は臨床心理士であることのみに重きを置いていた筆者、セラピーとケアを対極と捉えて対比表まで登場したが、徐々にこの2つの概念は対立するものではなく、相互補完的な関係にあるというアウフヘーベンが起こる。
「優れた知性とは、二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができるということだ」
とは、村上春樹がそのデビュー作でも引用したスコット・フィッツジェラルドの箴言だが、この言葉を思い出した。
筆者がデイケアを去る本当の理由は語られない。何故かICレコーダーが不可欠な職場になっていた、という暗示が呈示されるだけである。
そしてデイケアの闇を浮き彫りにした会計の声。ケアを脅かすニヒリズム。これらに対するアウフヘーベンも起こらない。
多分これらは永遠の課題として残っているのではないか。
と書くと、中途半端な本のようだが、これは小説ではなくガクジュツ書なのだ。
伏線が回収される必然はない。
2019年2月25日に初版が発行されたこの本、私が購入したのは2020年1月1日付けの第6刷だった。
9ヶ月で6刷。
ガクジュツ書にしてはおかしい増販頻度である。
全てにおいて規格外、ということで。