私の趣味の中で最も重要な海外放浪が出来ない反動だと思うのだが、この一年、高野秀行や角幡唯介や椎名誠や石田ゆうすけなどの旅行記/探検本の類いをよく読んだ。
のみならず、自分のブログの旅行記も、時折読み返した。
自らの旅の追想や、他人の旅/探検の疑似的追体験は、旅に行けない辛さを緩和する効果が確かにあるようだ。
積ん読の山からレスキューしたこの本は、つい先日読了。
2013年講談社ノンフィクション賞受賞作。
有名だし、評価も高く、発売から時間も経っていることがマイナスに作用し、なかなか手が延びなかったのだが、コロナに飽きた今が読み時だ。
結論から言うと、誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く、という高野イズムの最高到達点とも言える本だ。
何しろ、無政府状態と内線が続くソマリアで、国際的には一切承認されていないものの北部地域が独立を宣言したのだという。
のみならず、武装解除、直接選挙制による複数政党による政治と、西洋諸国のお仕着せなく独自に民主主義国家を樹立している。
驚いたことに、固有の自国通貨まで流通しているのだ。
インターネットや新聞や図書館で文献をいくら調べても、絶対にわからない真実が書かれていた。
筆者はそこに滞在し、無政府状態のソマリア内部に、誰も銃など持っていない、平和で高度な民主主義を達成した自称国家を目の当たりにしていく。
しかし、それだけなら読み物としては大して面白くない。
その後筆者は何度もこの地を訪問し、ソマリア沖に一時頻出した海賊が国家的事業になっている中部プントランド(こちらはソマリア連邦から独立は宣言していない)、そして今だ内戦に加えてイスラム過激派も跋扈する南部ソマリアと、護衛兵士をつけなければ足を踏み入れることの出来ない超危険なエリアにも文字通り命懸けで分け入っていき、総体としてのソマリアと相対的なソマリランドを発見していくのだ。
そしてソマリ人特有の氏族の結びつきと、イギリスが間接統治した北部ソマリアとイタリアが直接統治した南部ソマリアの違いがの民主主義国家ソマリランド、海賊国家プントランド、アナーキー南部ソマリアと三分割の要因であることがわかってくる。
物凄い本である。
そして物凄いことをやっているのに、それを微塵も感じさせない点も物凄い。
筆者による後書きを読み終えると、何故だか涙がにじんだ。何故だろう?
これを読んでもソマリランドやソマリ人に対してつゆほどの興味も抱かないし、勿論行ってみたいなどとは絶対に思わない(大抵の高野氏が行くところには行きたいとは思わないが)。
しかしこの、「行かなければ決してわからない」感覚とは、程度の差こそあれ、全ての旅の本質でもある。
どれだけガイドブックやインターネットで予習しても、そこに行き、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の舌で味わい、自分の言葉で話さなければ、決してわからないことは多いのだ。
それが旅をする意味だ、多分。
私のささやかな旅も、高野氏の壮大なスケールの旅も、根っこは同じだと思う。
良い本だったな。
そして良い読書体験というのも、ある種の旅なのだと私は思っている。