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中上健次「枯木灘」読了

私が高校生の頃、中上健次は間違いなく文壇の寵児であった。

なにしろ、戦後生まれで初めて芥川賞を受賞した作家なのだ。

 

学校の課題図書で読んだのか、個人的な興味で読んだのか覚えていないが、高校三年の時に中上健次の代表作、「枯木灘」を読んだ。

複雑すぎる人間関係、そして全編を貫く宿命的な暗さ、更に文体にも馴染めず辟易しただけで心に残らなかった。

 

大学で友人になった、極めて暴力的なのに極めて繊細な男が、中上健次のファンだった

(ちなみに私が椎名誠を読むようになったのは、彼に椎名の「蚊」という小説を借りたのがきっかけだ)。

彼の薦めで「鳳仙花」を読んだのだが、こちらは読了すら出来ずに途中で放り出した。

 

今年のお盆に和歌山県新宮市に3泊し、南紀を車で走り回った私は、唐突に「枯木灘」を思い出し、帰京すると直ぐに書店で買い求め、読み始めた。

 

旅の記憶が鮮やかに残るなかで読むと、細かい風景描写から、南紀の景色がはっきりと甦る。

作者自身が南紀で生まれ育ち、複雑な人間関係や育った土地の問題も事実がベースとなっているからだろう、とにかくリアリティがフィクションを軽く超越している。

リアリティが小説にとって特別大事な要素とは思わないものの、この圧倒的なリアリティには恐れ入るばかりだ。

なんというか、私自身がこの物語の風景に組み込まれているような錯覚すら起こる。

 

柄谷行人が解説で、「長い割に何も起こらず、同じことの執拗な反復」と書いているのは正鵠を射ている。

クラシックではラヴェルボレロのような、ロックではMOGWAIの多くの曲のような、とにかく作品における執拗な反復がもたらせる作用というのは、確実にある。

相手のリズムに自分が支配されてしまうような、ある種倒錯的とも言える陶酔と言ったら良いか?

 

凄い小説だった。

凄まじい小説だった。

 

普通の小説だったら、主人公の秋幸が、義弟の秀雄を殺し、車で逃げるも乗り捨てて深い山の中を宛てもなく歩くシーンで終わりそうなものだ。

しかし、物語は秋幸不在のまま、秋幸の戸籍上の従兄弟で幼馴染みの徹を主体としてもう少し続く。

そして最後は猛烈におぞましく、傷痕のような読後感が残った。

 

高校生の私には歯が立たなかったのも宜なるかな。当時の私には自分が何者かさえ分かっていなかったのだ。

 

作家の絲山秋子が担当編集から聞いた話として書いていた、純文学とエンタメ作品を隔てるもの、というのが印象に残っている。

いわく、伏線を回収しなくてよいのが純文学、伏線が回収されなければならないのがエンタメ、という区分だ。

なるほど、と私は感心したのだが、枯木灘には伏線など何もなく、盛上がりも殆どなく、白樺派的に狭くて古臭い私小説的な作品とも言えるのに、深い。深く熊野の地に根を下ろしすぎて、ブラジルまで突き抜けちゃったんじゃないかと言うほど、地に根差してかつ深いのだ。これは最高の文学じゃないか。

 

書かずにはいられないから書く、という切実さも、文学を芸術足らしめる要素であるのだと思う。


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